それはどこにでもあるような、でもどこにもないような、そんなお話。 「うぅ、朝かぁ〜。んん〜!」 伸びをするあたし。窓からはすずめのちゅんちゅんと鳴く声。いつもと変わらない、眠たくて、辛い時間帯だ。どうして朝はくるんだろう。ずっと夜だったら良いのに。 あたしは太陽が嫌い。なんだかしらじらしくて、偽善的だし。ずっと夜だったらなぁ。あの淡くて、日によって姿を変えるおぼろげな月をあたしは恋しく思う。 「あぁあ。仕方ない。起きますか」あたしはなけなしの気力でベッドから抜け出した。 学校に近づくにつれて辺りが騒がしくなってくる。これも憂鬱。どうしてこいつらはこんなに煩いのかしら。まったく。やれやれ。 いつもの顔ぶれ。いつものクラス。あたしは自分の席へと辿り着く。うん。今日はまだ順調。誰もあたしを気にかけない。あぁ、一人例外。 「おっはよう!今日も不景気な顔ね〜。幸せ逃げちゃうよ」 真理子だ。やれやれ。朝から元気すぎ。 「もぅ。そんな目で見ないでよ。エルったら、せっかく美人なんだからもっと笑顔見せたらモテるのに」余計なお世話だ。あたしは一人がいいの。 「あぁ。まだそんな目!それよりちょっと聞いた?」 話?そんなの興味ない。あたしはあたし。人は人。 「春に事件あったでしょう?」 でも、あたしの思いなんて関係ない。真理子の長所で、短所でもある。 「それで、その犯人って言われてた娘いたじゃない。もう転校しただか、辞めちゃっただかでいないけど」 その話なら知っている。別に注意していなくても一時期、学校のそこかしこで聞けた話だし。特に興味はなかったけど。よくある話。いじめ?ううん。みんな見えてないだけ。 「それがどうしたの?」 あたしが全然食いつかないのが真理子には不満みたい。 「もぅ!エルったら相変わらず無関心なんだから。そんなんだからみんなから敬遠されちゃうんだよ」 まったくこの娘は正直だ。でもあたしは好きで一人なの。 「えっと、もう話が分からなくなっちゃったじゃない。あぁ、そうそう、二年の若菜さん…だっけ」 その名前も知っている。一部では有名な名前だ。 「その娘をミナミで見かけたって情報があったのよ」 ふぅ〜ん。案外近くにいたんだ。まぁ、ここらは因縁深い土地だから。いくらでも身を隠せるトコはあるものね。あたしだって……。 「私は別にあんな噂信じてないけど学祭なくなっちゃったのは事実だし。けが人もずいぶん出たじゃない。ホントのとこ、どうだったんだろうね」 「そうね。それだけ気になるなら霊界探偵部にでも聞いてみたら?」 あたしは笑いかけてみる。 「う〜ん、彩音ちゃんかぁ。悪い人たちじゃないんだけどね」 真理子はちょっと困ったような、でも楽しそうな顔になる。まったく忙しい娘。 「いずれにせよもう終わったことじゃない。それより数学のテスト大丈夫なの?」 「あぁ!そうだった!お願い予想聞かせてぇ。エルのは百発百中だもんね」 心底、困ったような真理子。やれやれって思いながらもあたしは参考書を取り出した。 放課後。この学校はいちよう全生徒にクラブ活動を義務付けている。いわく、精神と肉体との調和をもった育成やらなんちゃら。 まったく。迷惑な制度。真理子はテニスの練習に行ったし。あたしもいちようは水泳部に属している。 でも、あたしは誰かと一緒に同じとこをぐるぐる泳ぐなんてまっぴら。顧問も気に食わないし。だからもうずっと行ってないな。ふぅ。 特にすることもないので帰宅することにする。それに昼間よりマシだけど、やっぱりあたしには「ここ」は少し煩(うるさ)すぎる。いろいろと。 家までにもいろいろなものを見かける。どうしてみんな気づいていないんだろう? まぁ、たいがいは害のないもの。関係のないもの。 あたしはなるべく見ないようにして街を通り抜けた。 この街には壁がある。あるかないか不確かな壁。でも壁は絶対だ。初めてこの街に来た時、あたしは寒気がした。なにかが渦巻いている。そう感じたからだ。別に悪意ばかりでもない。いろいろな感情が混じりあっている感じ。うまく説明はできない。 がちゃっ。家のドアを開ける。一人暮らしなので中は真っ暗だ。 気づけば、あたしは独りだった。家族の記憶は無いので案外、キャベツ畑で収穫されたのかもしれない。そして小学生くらいの時にこの街に辿り着いた。ここら一帯の顔役である学校に引き取られたのだ。なんでも慈善事業の一環として頭脳(ずのう)明晰(めいせき)な孤児を特待生として引き取っているらしい。 ふぅ〜ん。 高校に入ったあたしは寮をでて、学校から出される奨学金と各種懸賞金でマンションを借りた。いろいろとしがらみも多かったし、あたしには寮生活は煩(わずら)わしかったし。 髪の色が違うことで好奇の目もあった。比較的自由な校風とはいえ、あたしの輝くような金髪はやはり奇異に映るのだろう。あたしは多分、日本人ではない。かといって記憶もないので何人かは分からないえど。唯一覚えていたのがエルって単語。それも名前かどうかは分かんないけど、人はあたしをエルって呼んでいる。 マンションは丘の上で、見晴らしの良さが気に入って決めた。行きは下り道だけど、帰りが坂道なのが難点。その分、相場よりはちょっと安め。 窓からは街が一望できる。この眺めは嫌いじゃない。ううん。好きなくらい。 月もここが一番綺麗に映(は)える。今日は満月か。 不気味に感じるくらい近くて、大きな月。しかも満月。あたしの中で何かがざわめく。これは良い兆候ではない。月光があたしの肌をあわ立たせる。 「やれやれ」 いつの間にか日も暮れていた。あたしは気を取り直して料理を作る。一人暮らしなので手馴れたものだが、少しだけ、ほんの少しだけ味気ない。 満月だからだろうか。いつもよりちょっとセンチメンタルだ。 お風呂を沸かす。一人暮らしだから、普通はシャワーだけで済ますのかもしれないが、あたしは肩までつかりたい。ふふっ。日本人ですらないのに。 湯船に浸かって身体を伸ばす。今日の出来事を再確認してみよう。 取立てて、どうということもない一日だったけど、一つだけ。真理子の噂話。 無責任でいい加減な内容のものばかりだけど、なかには重要なものも紛れている。 「若菜、かぁ」 学校のあるここらの地方では名家に部類されるだろう。古の都から続く一族であるとも聞く。学年は一つ下なので詳しくは知らないが(なにせあの学校は生徒数が多すぎる)噂はいろいろと聞いている。まぁ、主に真理子からだけど。 実際、あたしには「見えて」いた。直接の現場を見たわけじゃないけど「風」は幾度と無く感じたもの。どうしてみんなは気づかないのかしら? ううん。違う。気付いている人たちもいた。霊界探偵部か。用心しないと。みんなは侮(あなど)っているけど、あの人たちは本物。ただちょっと、やり方がまずいときもあるけど。 それにすぐにいなくなっちゃった、転校生と特別講師。あの三人にもなにか不思議なものを感じた。整った容姿の裏に隠されたなにか凶暴なもの。あたしと同じ―――――― そこまで考えた時、あたしの心に言いようのない圧迫感が押し寄せる。この感覚。四月と同じ。あの大量のけが人がでた若菜さんの時と同じ。 あたしはお風呂からでて服を着る。窓は開け放したままだ。どうせここは丘の上の、そのまたマンションの上層部。だれからも見えやしない。そのはずだった。 窓の外には奇怪なものがいた。見た目は獣のような鳥のような。でも、空を飛ぶ獣はいないし、あんなに大きな鳥もこの近辺にはいないはず。 そいつはあたしを見据えながら部屋へと侵入してくる。不思議と怖くない。普段似たようなものならたくさん見かけているし、なによりこちらに危害を加えようとする意思が感じられないから。 「あなた、人の家に来るときは玄関から来るものよ」 言葉の意味が分かっているのか、獣(とりあえず、そう認識する)はリビングにふわりと着地する。どうやら羽根もなしに浮かんでいたようだ。この非常識め。 リビングはそう広くない。8畳くらいだろうか。それにしても獣の圧迫感により部屋が異様に狭く感じる。やれやれ。 「なにか喋れないの?どうせ見た目どうりの生き物じゃないんでしょ」 仕方なくあたしは空いたスペースに座る。今から逃げても無駄だろうし、その必要性も感じられない。 「おまえはなかなか度胸があるな」 意外と渋い獣の声。もっと下卑(げび)たものかと思ったけど。 「あたりまえじゃない。ここはあたしの家だもの。どうして遠慮する必要があるのよ」 この言葉に獣は笑う。ちょっと、むか。 「それはそうだ。失礼した。ワシの名は慶次という。」 人は見かけによらないというが、なかなかどうして獣もそうなのか。自分の名前を語る獣から知性と深い教養が感じられた。 「それで、その慶次がわざわざあたしの家になんの用かしら」 「匂い、を感じた」 「匂い?ホントに失礼なやつね。女の子にむかって匂いはないでしょう」 あたしの言葉にますます笑う、獣。むかむか。あぁ、あたしらしくない。獣のペースに乗せられっぱなしだ。 「いや、失礼。おまえからは芳醇な香りを感じる。そして同族の匂い、もな」 同族。その言葉にあたしはドキッとする。こいつ、なかなか敏感。 「ふっふっふ。気にせんでよい。おまえの変装は完璧じゃ。ワシにも人間にしか見えん。ただ、あいにく今日は満月。ワシの嗅覚も増すし、おまえの正体も顕(あらわ)れやすい」 なるほど。さっきお風呂に浸かっている時に無意識に力が漏れてたのかな。まだまだあたしも甘い。 「ずっと封印されておって、久々の地上界ゆえ楽しんでおったら、なにか良い匂いがしたでな。どのような者か見に参ったわけだ」 「で、もう満足したでしょ。あなたがいると部屋が狭くてしかたないから早く帰ってくれない」封印という言葉に少し興味を感じるも、とりあえず今は無視。牽制に獣を睨み付けてやるけど、効果はあまりない。 「なるほど。確かにおまえを見ることはできた。だが、今度はどうしておまえが、人間のふりなぞしてここにいるかが気になる」 やれやれ。これだから年寄りは。せっかく人の干渉を避けて暮らしているのに、ほっといてくれないかな。 「ふむ。話したくない事情があるのか。まぁ、見ず知らずの者に自分のことを簡単に話す輩(やから)もおらぬか。よいだろう。またおまえとは会いそうな気がする。その時にでもゆっくり聞こうか」 獣はそう言うと来た時と同じように、音もなく空に浮き、窓から飛び出していく。 「また会おうぞ」 「けっこうです!」結局、あいつのペースに振り回されたままだった。ふぅ。 今日はもう寝よう。月光浴をしたいところだけどまた無礼な客が来るかもしれないし。 朝だ。また憂鬱な時間。窓から外を見てみる。昨日の珍客の形跡はすでにない。今までと同じ、朝。―――――違う。 「壁が――――――」 壁がはっきり見える。いつも不確かな壁が。 言い知れぬ不安感。いつもと違う朝。こんなことは初めて。 とりあえず学校へ行こう。ふぅ。 長い下り坂をゆっくりと歩いていく。町並み自体はいつもと一緒。すくなくとも見た目に変化はない。 でも、どこか違和感はあるな。 学校に近づくとやはり賑やかなのは変わらない。ここはいつものん気だな。いつもは煩わしいのに、今日はちょっと頼もしい。 教室に到着。ここもいつもと変わらない。あ、真理子だ。 「っはよう!今日も朝から陰気な顔ねぇ。朝ごはんちゃんと食べてるの?」 「あたし、朝は食欲なくて…」 「もう。ただでさえ一人暮らしで食生活偏ってんだから、ちゃんとしなきゃ駄目よ」 「うん」真理子はいつでも元気。 でも、それは壁が見えないから?壁があんなにはっきりと―――――― 「どしたの?エルぅ?」 あぁ、いけない。また思考の連鎖にはまっちゃった。 「うん。大丈夫。ちゃんと食べる」 「なら、いいけど…」少し真理子の顔が曇る。 「じゃあ、夜一緒に食べない?」珍しくあたしの方から誘ってみた。 「あら?エルが誘ってくれるなんて珍しい!でも、今日はちょっと…」 「あぁ、用事があるなら別に…」ちょっと残念だけど。 「あ!エルもおいでよ!今日、合コンなんだ」 へ?合コン?なんであたしが――――― 「じゃあ決まりね!メンバーは女の子は主にテニス部なの。それと彩音ちゃん。男の子は犬神君とその友達だって。あ、よく考えたら霊界探偵部じゃん」 霊界探偵部。一回話してみるのも悪くないかも。壁の原因を知っているかもしれないし。大丈夫。昨日、慶次も普通なら絶対分からないって言ってた。あいつはそうとうな力をもった獣なのに。 「あ、でも…霊界探偵部相手じゃ嫌かな?」 「ううん。そんなことない。じゃあ…あたしも行ってみようかな」 「うん!おいでおいで!エルはホント美人さんなんだから絶対モテるよぅ」真理子の顔が笑顔一色になる。ホント、分かりやすい娘。でも、そんなとこが――――― その日の授業はすぐに終わった。なんだかいつもより放課後が待ち遠しい。 合コンは七時からみたい。それまでは学校を見回っておこう。なにか壁の手がかりがあるかもしれない。なにせこの学校は不思議の宝庫だ。 校舎・校庭・図書館。部室棟・体育館・食堂。なにせ広い学校。幼稚部から大学、院や研究部まで含めるこの敷地はまさしく一つの都市である。歩くだけでちょっとしたハイキングとなる。 「なにか――――いる」あたしにも匂う。同族の匂い。どうやら昨日の満月を境にこの街は異質な空間となってしまったようだ。 ピピピピ。愛想のない携帯の音。あたしの携帯が鳴るとは珍しい。誰かしら? 「ちょっと!エルぅ!なにやってんの。もう時間よ」 あ、いけない。もうそんな時間か。あたしは慌てて待ち合わせ場所へと向かった。 待ち合わせ場所には真理子とあと何人かいた。見知った顔は―――――いた。 あれは、確か品川詩子(しいこ)。品川財閥の一人娘であり現当主でもある娘。直接の関わりはないが、まぁ、有名人だ。そして、なにか匂う。まさかこんなとこで出会うとは。 「はじめまして。あなたがエル先輩ですね。私の友達にも先輩のファン多いんですよ」 気付けばもう一人の娘からも熱い視線。やれやれ。どうしてこの娘たちは同性の、しかもよりによってあたしなんかに憬(あこが)れるのやら。 それよりも―――――。あたしが気になるのは彩音さん。見た目は、まぁ悪くない。ちょっと天然な気もするけど意思の力は強そうだ。少し笑いかける。彩音も笑い返してくれる。うん。悪くない。 次に男の子との待ち合わせ場所にむかう。もうみんなそろってる。なんだか、雰囲気がちょっと怖い。 そういえば、あたし男の子と話すの久しぶりだな。 合コンが始まる。あたしはまずは真理子のとなり。ちょっとドキドキ。いろんな意味で。 「じゃあ自己紹介からいきましょうか!私は三年D組の斉藤真理子です。えっと、テニス部の副部長してます。よろしくね!」手馴れた感じの真理子の自己紹介。ううむ。さすが。 「私は品川詩子(しいこ)。二年I組です。同じくテニス部やってますぅ。趣味はピアノとお料理かな。好みのタイプはオダギリジョーさんですぅ」 詩子(しいこ)もなかなか。そうか。ああすればいいのか。みんなすごいな。 いよいよ、あたしの番。う〜ん。緊張。 「ど、どうも。エル・菅原です。え、えっと。真理子と同じD組で水泳部です。幽霊だけど……」ダメ。 やっぱりしどろもどろ。来たことをちょっと後悔する。なにやってんだか。 顔を真っ赤にしてうつむくあたし。やれやれ。 それからしばらくはなごやかなムードで進んでいく。あたしを除いて。ふぅ。 いい加減居辛くなってくる。そんなあたしを見越してか、真理子が席替えを提案した。 「お待ちかね!席替えタ〜イム!」 結果、彩音は詩子(しいこ)とあたしの隣となる。男の子は男の子で固まってるし。これって、あんまり席替えの意味ないんじゃ? 見ると、やっぱり犬神君一帯はつまらなそう。でも、あたしも話しかけることはできない。ふぅ。 隣の彩音は詩子と「サッシー」の話題で盛り上がってる。でも、あたしもここに住んで長いけどそんな奴の匂いなんて嗅いだことないな。てきとう? そうこうするうちにもう九時近い。あぁ。うまくいかないな。どうしよう。う〜ん。 一人もんもんとするあたし。周りの男の子と目があっても思わず睨んでしまう。 時間がない! 「あ、あの彩音さん!?」昨日、慶次とはすらすら話せたのに。人間相手だとうまくいかない。なんでなんだろう…。 なんだか、彩音のほうも必死に詩子の気を引こうとしてるみたいだし。全然こっちに注意を払ってくれない。そして、九時になった。 詩子は用事があるとかで帰ってしまった。それに呼応するように霊界探偵部も帰ってしまう。あらら。 いったいなんだったんだ、この合コン?まったく。 二次会に行こうと真理子が誘ってくる。まったく気は進まないが真理子をほおって帰るわけにもいかないし。 仕方なく、あたしはカラオケへと連れて行かれる。カラオケ?空の桶?まさか。あたしだってそれくらい知っている。でも――――歌は知らない…。 男の子たちが歌なのか騒音なのかよく分からない歌をがなりたてる。こいつらは猿以下ね。テニス部の女の子は甘ったるい声で歌う。なになに、ぎゅうたん?なんで牛のベロなんか歌うんだろう。まったく意味不明。 真理子は洋楽か。なかなか上手い。英語の成績そんなによくないのにどうして英語が話せるんだろう? まったく不思議。 え、あたしも歌えって!?なにを馬鹿な。絶対いや。そもそも歌なんて知らないし。それでも真理子が要求してくる。う〜ん。まぁ、このままじゃちょっと真理子にも悪いかぁ。 あたしはそう思って曲を選ぶ。へぇ。テレビのリモコンみたい。あたしは苦労してリモコンを操作し、選曲した。 「つばさをください」あたしが唯一歌える曲。昔から好きだった。自然と心に染み入るような。歌詞も暗記している。あれ、画面に歌詞が映ってる!だから真理子も歌えたんだ。 そんなことを考えながらあたしは歌う。あの大空に帰りたい―――――と。 歌い終えると、なぜかみんな泣いていた。さっきまで煩かった男の子たちも、テニス部の娘も、そして真理子も。 ちょっとビックリ。あたし、そんな音痴なの? 「エルぅ!!」戸惑うあたしに真理子が抱きついてくる。うわ。危ないじゃない。 「私、なんだかすっごく切なくて、もどかしくて、エルをぎゅっと抱いていたい」 いつもの元気な真理子からは想像もできないくらい、弱弱しい。思わず頭を撫でてあげた。大丈夫。まだ、あたしはここにいる。 結局、二次会はあれで終了だった。子どものように泣きじゃくるみんなをなんとか自分の家に追い返し、あたしは疲れ果てて帰宅した。 壁はまだ見える。この街いったいをすっぽりと覆うように。あの壁に触れるとあたしはどうなるんだろう。少しだけ欠けた満月の光を浴びながらあたしはふと、考える。いったいどうなるんだろう? あ、なにか月を横切った。いいな。つばさをください、と小さく、口ずさんでみる。すると、笑い声。 むか。この声は。 「また会ったな、お嬢」やっぱり慶次だ。 「会うもなにも、ここはあたしの家です」奴は窓の少し上方にいた。もう。誰かに見られたらどうするの。 あたしがそう言ってやると、慶次はまた笑う。なんでいちいち笑うんだろう、こいつは。 「心配せんでいい。ワシの姿は常人には見ることはおろか触れることもできんわい」 ふ〜ん。便利な体。うらやましい。それに空も飛んでいる。 「で、今日はいったいどういうご用件で?」いろんな感情がない交ぜになって、ちょっと怒った口調になる。 「うむ。月が綺麗じゃったからな。どうせ散歩するなら目的があったほうがいいじゃろ。それで寄らしてもらったんじゃ」獣の顔なのに、なぜか慶次が笑っているとわかる。 「それは奇特なことで。でも御あいにくさま。あたしはあなたに用なんて―――――」 そこまで言って、ふと気付く。そういえば昨日慶次が現れてから壁がはっきりと見えだしたんだっけ。 「慶次さん。あなた壁について何か知っている?」 あたしよりも相当長生きしてそうな獣だもん。ちょっとくらいは知っているはず。 「ふむ。壁、か」思慮深そうな声。笑い声には腹立つけど、こういう時は不思議な頼り甲斐を感じる。 「知らぬなぁ」 がっくり。思わず力を使いそうになる。危ない危ない。 「なにせここ何百年かワシは封印されとって、ようやく昨日復活したばかりじゃからな。ワシが聞きたいくらいじゃ。なんせワシですらあの壁は超えられん」 やっぱり。壁が具体的な圧力を持ちだしている。多分、ある程度の力を持った者はこの街から出ることが適わないのだろう。 「ふぅ。役に立たないおじいちゃんね。なにか推察もできないの?」 「それくらいじゃったら」いささかプライドを傷つけられたようだ。少し言い過ぎたかな。 「アレはどうやら意思を持っているようじゃ。壁から思念に似た圧力を感じる。弱い普通の人間はなんも感じんじゃろうが、ワシらくらいの力となると逆に敏感すぎてもろに影響を受けてしまう」 学生である当面はこの街から出るつもりはないけど、ちょっとヤだな。 「ワシが見たところ、かつて国都が置かれたことのある地域は壁の支配下にあると考えてよい。これだけの範囲に結界を敷くとなると、術者は相当な力の持ち主じゃろう」 ふ〜ん。この街だけじゃなくてそんな広範囲にまで広がってるんだ。そいえばさっきまであたし、ミナミにいたもんね。じゃあ、無意識のうちに壁が遠のいてるってことか。あくまで知覚できる範囲内に壁が存在するように見せるなんて芸の細かい。 「都のあった地域の霊的磁場を利用し、力を増大させているのじゃろう。その真の狙いは分からんが、これだけの力を振るえばワシらとてタダでは済まんぞい。せっかくこっちに還ったばかりじゃというのに」 そういえば、慶次は封印されてたんだっけ。 「どうして封じられてたの?ううん。むしろ、どうしてこのタイミングで封が解けたの?」 慶次の復活と壁の出現。なにか関係があるのかも。 「ワシか。まぁ。ワシが封じられとったのは今回関係ないじゃろ。昔の事じゃて。だが、封が解けたのは確かに気になる。あやつの術が自然に破れるとも考えられんし」 一人、自分の世界に入る慶次。もしもし?話が見えないんですけど。 「おそらく、先ほども言ったように何者かの術により、ワシを封じるために使われとったこの地域の霊的エネルギーが壁の形成のために吸い取られたからじゃろう」 確かに、そう考えると辻褄が合う。しかし、いったい、なにが起きているんだろう。 気付くと慶次は見えなくなっていた。やれやれ。帰るなら一言くらいかけたらいいのに。現われるのが突然なら、去るのも突然というわけか。まったく。人をなんだと思ってるんだ。人―――――。 ええい。今日は疲れた。もう寝よう。あたしは心の不安から逃れるためか、布団に潜り込むようにして、寝た。 |